温故知新を考える(1)

温故知新という言葉を好む世間のリーダーは多い。また、古くから多くの賢人達も教えてくれています。私は私は千種高校の一期生1966年卒業である。千種高校の同窓会報「かきつばた」が手元に届いた。中に千種高校60周年記念の同窓会を体育館で開催とあり実行委員は温故知新をテーマに60年を振り返るとあったので一回生の参加を打診してみたら断られてしまった。今回は在校生主体で卒業生の参加は考えていないとうことであった。そこで私なりに初代校長、辻村先生の人となりを考えてみた。勿論在学中にわたしは辻村校長と直接会話をしたことがない。そこで開校当初からの先生もほとんど亡くなっているなかで今も一緒にゴルフを楽しんでいる加藤先生に尋ねてみました。加藤先生からは、「とにかく先生にも厳しいひとであった、一流で無くてはダメ、一流その道の一流を目指せ」というのが印象に残っている。坊主頭令があったよな、これも若いうちに一度屈辱的なことを経験して、それを乗り越えることがその人の為になるのだから、ていう人であった。」これはいままで誰からも聞いたことがなかった。

初代辻村校長の教育理念

1.自主的、創造的な生活態度を身につけ積極的に行動する。

2.道徳的心情を深め、健康で明朗でたくましく生きる。

3.人間相互の信頼と協調につとめ集団の中で個人として責任ある行動をする。

4.豊かな教養と情操を養い、国際的視野を広めうるおいのある生活をする。

これは1962年、辻村校長が1062年に定めた教育理論である。加藤先生からの校長の印象からは些かはなれてもいるようにおもいますが、当時、校長を中心に兵藤教頭、津田先生で纏めたこともうかがえた。いまこの理念を読んでみると私の75年の歩いてきたこととビックリするほど合致していると思う。

加藤先生の辻村校長の印象コメントから私の兼ねてからの疑問点も解消できた。それは、長野県諏訪に霧ヶ峰高原があります。そこにヒュッテジャヴェルというドイツ風建築の山小屋があります。ここの主が私の尊敬するひとの一人、高橋達郎さんがいました。学生時代は時間さえあればここでアルバイトをしていました。単なるアルバイトでは無く高流流人生論を学ぶことが目的でした。何故霧ヶ峰の話が出てきたと言うと、千種高校の林間学校が霧ヶ峰でスタートして17年間続いたからです。高橋氏から聞いた話です。「あのなあ、YODA, 最初は林間学校の申し出は断ったんだよ、でも辻村校長の生徒に対する教育理念と校長の信念に共感したからOKを出したんだよ。そういえば高橋師も本物を志向して生活していたし、家具、小屋の設計にもこだわり自前主義を徹底していたことを思い出したしだいです。ここを訪れるお客様にもその道のプロが多かったと記憶しています。尾崎喜八、串田孫一、松本家具の池田氏家族、高松宮殿下、音楽演奏家、民芸職人、とくに陶芸家加藤卓夫氏、蒔絵師の高橋節朗氏、高橋師の仲人は日本画の大家、熊谷守一夫妻と超一流どころが集まっていました。「その道の一流になれ」はそいう事だったのかと今になって繋がった気がします。辻村校長が現地に出向き高橋氏と林間学校の予定地となるキャンプサイトにある大きな岩(車山噴火時の大きな噴石)に座って協議を行ったその岩が校長のたっての頼みにより高橋氏より千種高校に送られ今も体育館北側に鎮座しています。国定公園から岩を掘り起こし愛知県の高校に送ること自体大変なことだったと思います。どれほど二人が共感し合った証でしょう。次回温故知新(2)に続く