トヨタの経営法が日本式経営な訳

1935年に「豊田綱領」が編纂されて、1950年にはトヨタは経営危機、労働争議を迎えます。豊田喜一郎の社長辞任後、三代目の社長に就いたのが石田退三氏でした。その後、石田社長は30年間の長きにわたり社長を務めます。この石田退三氏、2代目社長の豊田利三郎氏が近江、彦根からトヨタの社長に就いています。石田退三氏は愛知県知多半島常近辺近辺、鈴が谷の鈴溪塾を出た後、彦根で高等教育を学び、近江、京都、大阪、堺と仕事を通して近江経営学を身につけていました。琵琶湖の東地区は織田信長が安土城を築き、楽市楽座を導入、職種による規制緩和を実施して大いに繁栄していたようです。この地は北前船で日本全国の物産が近江商人商方により集結し、琵琶湖大津から淀川で堺、大阪を通して上海(当時は世界一の都市)で取引され、海外の情報も豊富に入ってきておりました。当時、大阪、堺は綿畑が一面に生えており、大事な輸出品でした。そこに繋がるのが豊田佐吉翁の自動機織機も多く稼働しており、機械も上海にも売られておりました。そのため、豊田佐吉翁はエンジニアでありながらセールス、会社経営のノウハウも身につけた正に翁になっていきました。余談ですが、豊田利三郎氏が彦根から豊田家の養子となり、社長職につきました。これは後に、三井物産を興した兄の強い押しがあったようです。

トヨタ生産方式の裏に潜む心を学ぶためにそれぞれのトヨタ社長の語録がネットや本が紹介していますので是非学んでみて下さい。トヨタ式を理解する副読本としてお薦めします。

 

 

タイトルとURLをコピーしました